本堂欄間彫刻「弘法大師一代記」

 

誕生


宝亀五年(774)6月15日、大師は四国の讃岐国多度郡屏風が浦(現在の香川県善通寺市)の豪族の子として生まれた。父は佐伯直田公、母は阿刀氏の出身で玉依。幼名は真魚(まお)と名付けられた。

求聞持法成就


大師は土佐国(高知県)の室戸岬、伊予国(愛媛県)の石鎚山をはじめ、各地で苦修錬行を積んだ。御蔵洞(みくろどう)という洞窟で虚空蔵菩薩御真言を百万遍唱える求聞持法を究めた時、明けの明星が口の中へ飛び込み、あらゆる教えの意義を暗記理解する力を得た。 二十歳頃

入唐求法


延暦二十三年(804)肥前田浦より四隻の遣唐使船の第一船に乗り出航。当時の航海術は未熟で、出港した翌日に暴風雨に襲われ、船団は分裂し、第一船と第二船のみが辛うじて唐の国へ漂着することができた。三十一歳

 

灌頂


大唐長安青龍寺にて恵果阿闍梨より真言受法。正嫡の弟子として迎えられ、わずか3カ月という短期間の内に、密教の奥義を漏らすことなく伝授された。三十二歳

 

飛行の三鈷


大同元年(806)、大師は2年間の留学を終え、帰朝に際し密教流布に相応しい聖地を知るべく、唐の海岸より三鈷杵を投げた。伝説では、この三鈷は遠く海の彼方、日本の高野山へ飛び去ったという。三十三歳

 

立教開宗


弘仁七年(816)、狩場明神と邂逅(かいこう)、二匹の犬に伴われ聖地を見出し、霊峰高野山を開創した。翌年、山上に寺院を建立し今日の高野山の基礎を固め、密教経典『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』から名をとり「金剛峯寺」と名付けた。四十三歳

 

満濃池修築


弘仁十二年(821)前任者が三年かかっても成し得なかった讃岐満濃池の修築を監督し、治水事業を僅か三ヶ月で完成させた。大師はこの他にも全国をまわって道を開き、橋を掛け、井戸を掘り、温泉の効用を説くなど、多様な才能を人々の為に生かし、日本文化の発展に貢献されたと伝えられている。四十八歳

 

御入定


承和二年(835)三月二十一日。大師は弟子達へ遺言を済ませ、高野山奥の院にて静かに入定を果たした。「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」(この世のある限り、救いを求める人がいる限り、悟りの世界がある限り、私は仏の教えを説きつづける)と永遠の誓いを立てた大師は、御入定から一千百六十年余を経過した今も、人々から「お大師さま」と慕われ、その信仰は受け継がれている。六十二歳

後の延喜二十一年(921)醍醐天皇は弘法大師号を送られた。

 

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